ここ数日『なんのために生きているのか分からない』という言葉をタイムラインで見かけることが多くなった。
いや、わたしのアンテナが『死』に反応しているだけかもしれない。
最近『死』に関する本を読むことが増えた。死にたいわけでも死にたくないわけでもないのだが、ここのところ新型コロナウイルス感染拡大を皮切りに、三浦春馬の件や安楽死の問題など、やたら『死』について考えることが増えたからだ。
先日、精神科医の名越康文さん著書『どうせ死ぬのになぜ生きるのか (PHP新書)』を読んだ。仏教の話が多かったので内容自体は軽くしか読んでいないが、そのタイトルが印象的だったので頭から離れず、ずっと考えていた。
どうせ死ぬのになぜ生きるのか
その問いに対する『正解』は出なかったのだが、先日読んだ『精神科医が教える ストレスフリー超大全――人生のあらゆる「悩み・不安・疲れ」をなくすためのリスト』に書かれていたことが、わたしの中で腹落ちした。
話はシンプルだ。『死ねないから生きている』
わたし自身、”死にたい”と思ったことはなくはないが、実際に死のうとしたことは一度もない。そんな人は多いんじゃないだろうか。
本には、”自殺を遂行するにはものすごい恐怖心がかかる”と書かれていた。その恐怖心を専門用語で「自殺衝動」というそうなのだが、自殺衝動の持続力は30分程度だそうだ。そしてその30分の間だけ人と話をするなどしてやり過ごせば、死に向かう衝動を抑えることができるらしい。(冷静さを取り戻すとも表現できる)
魔の30分をやり過ごし、生き残った人は後になってこう言うのだそう。
「あの時はどうかしてた」「あの時死ななくて良かった」と。
わたしはこの言葉がとても意外だった。「死ねなかった」「なんで止めたんだ」と言うのかと思っていた。だけどそれだけ死にたいと考えることよりも、いざ死のうとすることがはるかに恐ろしくて、瞬間的で、異常な精神状態なのだと知った。
結局人は『死ねないから生きている』のだ。生きることは簡単じゃないという人もいるが、多くの人にとってやはり、死ぬことの方がはるかに簡単ではない。そう考えると、生きる意味なんて『死ねないから』で十分だと思う。
生きる意味を問うことは無駄?
人の死亡率は100%だ。誰もが必ずいつか死ぬ。どんな人生でもどんな人格でも生き始めた瞬間から、死が平等に訪れることは確定している。
最近、解剖のプロである養老孟司さんと『死=敗北だった』と語る元外科医の小堀 鷗一郎さんの対談本『死を受け入れること ー生と死をめぐる対話ー (単行本)』を読んだ。(こうして振り返ると、本当に先月は『死』に関する本を読み漁った月だった)
本の中で、養老さんが書かれていた見解にめちゃくちゃ納得してしまった。
『最近の若い人はなんでも意味を求めたがるが、すべてに意味のある世界なんてAIの世界そのものだ。AIは意味がないことを決してしないし、意味のないものを排除したがるから』
言い回しは多少違うかもしれないが、これにははっとした。わたしもつい普段から『意味があること』を選ぼうとしてしまうが、意味のないことを全除外し、超合理的に生きていくことに、人としてそれこそ一体どんな大きな意味があるのだろう。
むしろ今ある仕事や趣味、経験、今繋がる大切な人たちだって、最初は意味のないことから始まって、いつしか宝物になっていたりする。
そんなことを考えると、生きる意味を考えること自体、馬鹿らしい気がしてきた。
生きる意味は不要?
ここからは何からも影響を受けていない個人的な意見を書く。様々な死についての本を読み、改めて生きる意味を自問して苦しむ必要はないという結論に至ったのだが、個人的には生きる意味を与えてもらうことで救われることはあると思っている。
冒頭で死にたいと思ったことはなくはないと書いたが、その衝動(というほど強烈なものではなかったが)を止めるのはいつも母の存在だった。わたしがいなくなったら、それこそ彼女は自ら死を選んでしまうんじゃないか。そう思ってしまうほどに、わたしは母に愛されている(と感じている)。
先ほどの本で、養老さんがこうも言っていた。『自分の死に一番無関係なのは自分自身だ』と。はっとした。死んだあと自分の死に一番無関係なのは自分で、一番の関係者は、自分が一番大事に思ってきた人たちなのだ。
そう思うと、どんな嫌なことがあっても、どんなに嫌な自分を見つけてしまっても、やはり大事な人を傷つけたくないから死ぬのはよそうとなる。そして何よりも、そういう人がひとりでもいると、生きる希望になる。
生きていくためには、意味よりも希望が必要
『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』の答えは結局でなかった。だけど『どうせ死ぬけど、死んだら泣く人がいる』ということは気づけた。
誰もがどうせ死ぬ。だからこそ、どうせ死ぬ者同士がきているほんの数十年、数百年を、少しでも楽しく、誰かに必要とされていると感じながら生きていくのかもしれない。
きっと年を重ねると、もっと考えは変わっていくかもしれないけれど、ここ最近『死』に関心を持ち始めた32歳女の今は、こういう見解なのである。
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母親がダイナマイトで自殺した末井さんの『自殺書』。このテーマについて、こんなに嫌な感じなくコミカルに描けるのはこの方だけだと思う。