ここ最近「死」というテーマについてよく考えており、ちょっと前にも「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という記事を書いた。
あ、全然ちょっと前じゃなかったw 失礼しました。
ということで、こんな重たげなテーマを気軽にブログに書いていいのかわからないけど、わたしは「生きる」ことを考えるとどうしても死を避けられない気がしている。理想の生き方はうざいくらいにたくさん浮かぶのに、理想の死に方は、まだないのだ。みなさんはどうですか?
そして先日、久しぶりに会う友人たちに素直に「理想の死に方が浮かばない」と相談してみると「テーマがやばい!」とプチ炎上しかけたのがだ、わたしと同じく「死」を禁句だと思っていないタイプの友人は面白がってくれたため、話は遮られることなく続いた。
彼もまた「必ず誰しもに訪れるものだからタブーにしなくていいと思う」「死ぬときはあっさり死にたい」というタイプだったのだが、わたしはそのテーマに共感してくれたことが嬉しくて、おそるおそる彼に希望の死因を訪ねてみた。
すると彼は、こう言った。
「雷に打たれて死にたい」
わたしは、それこそ雷に打たれたような気持ちになった。それだ。それ、わたしもそれがいい。
なぜ雷なのか理由を聞くと「誰にも迷惑かけないし、誰しもが“仕方なかった”と思うから」とのことだった。彼の答えは、わたしがここのところ考えてきた「死」のいろんな要素がすべて含めれていて画期的だった。
前回のブログにも書いた、死体解剖のプロである養老孟司氏の言葉「自分の死に一番無関係なのは自分」という言葉が見事に反映されていたし、あながち幸せな死因だと思ったのだ。
あまりにも画期的だったため、「雷に打たれて死ぬことのメリット」を書き出してみる。
・誰にも迷惑かけない
・誰も自分を責めない
・それくらいの低確率で雷に打たれたのであれば、それはもう運命だったと消化できる
・ちょっと笑ってくれるかもしれない
・最後まで勢いのあるヤツだったな!とか言ってもらえるかもしれない
・伝説に残るかもしれない
・一瞬なので自分も苦しまない
いやすごい。すごすぎる。利しかない。もう雷で死にたい。
まぁでも実際調べてみると、雷に打たれた人は70〜90%の確率で生き残るらしいし、それに加え、その後のトラウマに悩むという恐ろしい記事も見つけてしまったので、そっと雷死への憧れは自分の中で消した。それはさておき「そういうことだ」と思ったのだ。
幸せな最後というのはやはりよくわからないし、ただひとつ言えるのは、俗に言う「家族に看取られて」とかよりは、あっけなく、そして誰も自分のせいにしない状態で、できれば誰も泣かずにすんで、なるべく病院で過ごす時間は短く命を終えたい。
そういえば、死を受け入れること ー生と死をめぐる対話ー (単行本)に「全員が病床で亡くなることが常識なら、わたしたちは全員"仮退院中である”」という表現がされていて、納得だった。
とにかく雷死は却下となったので結局答えはでなかったが、これからも時間をかけて考えたいテーマである。
本のおすすめ
ちなみにこの本、「死」とは敗北だと考えてきた外科医師・小堀先生と、「死は二人称として存在する」と語る解剖学者・養老先生の対談本なんですけど、決して結論付けずに色々な角度で会話が進むのがおもしろいです。おすすめ。
あと、母親がダイナマイトで自殺した末井さんが書く本もなかなかエキセントリックというか。なんだろう、このテーマをふわりと書けるのはこの方しかいないと思った。暗くないのが不思議。