みよしのぶろぐ

沖縄でフリーライター兼WEB編集者してます三好優実のブログです。

「無自覚」から脱出したい、連休最終日。

今日、ついさっき。短歌ムック本「ねむらない樹」を読んでおり、どきっとする言葉に出会った。

 

僕が今日「学生短歌」の場所で出会う短歌の多くは(「学生短歌」だから、ではなく、ダメな短歌は殆どそうだが)、無自覚に他人の歌をパクり、よくあるポエジーを焼き直し、所与の倫理観をなぞることに躊躇いがない。

 

短歌に限らず、最近「無意識」「無自覚」はわたしの中で考えるべきテーマだったので、余計にどきっとした。誰かがTwitterで「悪気がないのが1番タチが悪い」というようなことを呟いていて、非常に納得してしまった時から意識していたと思う。

 

今思い出したけど、そういえば他にもあった。JY ParkがNiziUのオーディション最終日に言った「謙虚や誠実な人間でいるように"気をつける"のではなく、カメラが回っていなくても変わらず、いつカメラを回されても大丈夫な人間になってください」という言葉。うろ覚えなのでニュアンスは違うかもしれないが、この言葉からは無自覚、無意識レベルで人間性を高めてくださいと汲み取った。

 

 「自分らしさ」っぽさ

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自分らしさっぽい言葉をたくさん用意するのは簡単だと思う。本を読み映画を観て、響いた言葉をかき集めて喋ればそれっぽくなる。「響いた」時点で、自分の中にあった感覚だから間違いでもない。

 

多分この「たしかに自分なんだけど、ちょっとだけ着飾った自分」とか「響いた言い回しに言い換えること」とかが、ムック本がいう「無自覚に他人の歌をパクり、よくあるポエジーを焼き直し、所与の倫理観をなぞること」にあたるのだと思う。

 

それは、ちょっとしたことの積み重なりでどんどん改変する。たとえば無自覚に、自分の感覚より大きかったり小さく表現してしまっていないか。たこ焼きが食べたいのにお好み焼きが食べたいと言ったり、悲しいのに悔しいと言ってしまっていたり、少し泣いただけなのに「号泣した」と言ってしまっていないか。小一時間考え事をしただけなのに「最近ずっと悩んでて」などと言ってしまっていないか。とか、そういう。

 

ちょっとだけ大雑把に変えてしまった物言いや、「言語化」を急いだ結果、無理やりピースをはめた部分を調整していくだけで、案外「自分らしさ」に出会えるのかもしれない。改変されてしまった言葉や仮の自分らしさから開放され、等身大の自分を表現できるようになるのかも。

 

そんなことを思いながら、連休最終日はもうすぐ終わる。

  

短歌ムック ねむらない樹 vol.5

短歌ムック ねむらない樹 vol.5