先日、「性善説vs性悪説」論を繰り広げる場にでくわし、自論を話すととても共感していただけたので、ブログでも書き残しておこうと思う。
まずわたしは、性善説も性悪説も、どちらに対しても「うーん」と思っている。
性善説より『性弱説』
先日、友人がとある間違いを犯してしまった。犯罪とまではいかないが、彼女は自身の行動によって、結果として多くの人を傷つけることとなってしまった。
それまでずっと『自分は弱い』と言ってきた彼女だったけど、犯してしまったことを反省し、反省しすぎて苦しんだ。苦しんで自分を責めて、それでも逃げなかった。自分の弱さを、その時ばかりは受け入れずに抗ったのだ。
その期間を経て、彼女は変わった。相変わらず自分は弱いと言ってはいたけど、自分の弱さに嫌気がさしたらしい彼女は、『このままじゃだめだ』と誰にも頼らずいろんな覚悟を決め、傷付くかもしれない全てに向き合い、驚くほど強くなっていた。
それを見て、人間は、間違いながら強く、優しくなっていくのだと改めて思った。そういやわたしも、いつも間違いだらけだった。
そして思った。性善説も性悪説も極端だけど、あえて極端な"人間とは"を考えたとき『性弱説』こそ、リアルなんじゃないかと。
誰しもが弱く生まれ、弱さを持ったまま人生を進む。その中で、間違いを犯したり『自分は弱いから』と強い人を羨んだりもする。そんな人生の中で『強くなる』と決めるところから、強くなっていけるのではないだろうか。
なぜ強くならなくてはいけないか
そもそも生まれた頃からみんな弱いならば、強くなる必要ないんじゃないかという声も聞こえてきそうだ。
正直言ってしまうとわたしは、必ずしも強くなる必要なんてないと思う。弱くても自己肯定さえできれば、生きていくことはできるはずだから。
だけどわたしも彼女も、強くなることで守りたいものがあった。
『格闘技をやって悪い奴に勝てるようになろう』という種類の"守る"ではなく、『誰に何を言われてもひとりを信じること』だったり『傷付くことから逃げず、他人と向き合うこと』だったり『人を許せること』だったり。
人との絆や関係、自分のプライドや尊厳も含め、大事なものを守るためには『強さ』が必要だ。
あとわたしは元々メンタル激弱人間だから、もはや人と目を合わせることすら強さなんじゃないかとか思っている。
どうにか強く生きていきたい
もはや『いい人になりたい』『誰からも好かれたい』なんて思わない。
だけど自分の弱さも悪さも汚さも優しさも冷たさも穏やかさも、全部受け止めて、せめて大事な人だけは守れるように強くなっていきたい。