最近ときどき見かける『新型コロナから学ぶ』とか『新型コロナが気付かせてくれた◯◯』というような言葉が、わたしは嫌いだ。
理解できないというわけではない。ただ、この表現がなんともイラっとするのだ。
わたし自身、新型コロナで自粛を始めたことによって人に感謝したり、親に連絡する機会が増えたりはした。
人は悲しいかな、いまある幸せに気づけるのは落ち込んでいるときだということは理解している。少なくとも、今あるもののありがたみに気づけるのは、絶頂期ではない。
だけどどうしても、それらに気づけたことが『コロナのおかげ』とは言いたくないのだ。だって気付くきっかけの与え方がむごい。これを「おかげ」というのは、ストックホルム症候群を思わせるほどの違和感がある。
ストックホルム症候群:誘拐事件や監禁事件などの犯罪被害者についての臨床において、被害者が生存戦略として犯人との間に心理的なつながりを築くことをいう。
ただ、こんなときだからこそ知りたくなった。
『どうして人は、悲しさから学び、人を大事にできたり、感謝の気持ちが湧いたりするんだろう。』
『悲しみを力に変える言葉をたくさん持っている人』、一番に頭に浮かぶのは、わたしにとって「浜崎あゆみ」だった。
なので"浜崎あゆみの実話を元にしたフィクション"として、最近放送されているドラマ『M〜愛すべき人がいて〜』を軽い気持ちで観てみたんだけど、控えめにいって最悪だった。(個人の意見です)
フィクションとはいえ、あれほど時代を作ってきた人たちがオーラなく演出されているのは耐えられなかったし、やたらライバルが大物でパワーバランスが奇妙なのも嫌だった。そして微妙にいじられた曲名やアーティスト名が余計に陳腐に見えて、見ていられない。
ので、1話目の途中で見るのをやめ、Amazonで原作小説『M 愛すべき人がいて』の購入ボタンをクリックした。
結論からいうと、小説のほうは控えめに言って最高だった。少なめに見積もっても5回は泣いた。今日読んで今日読了して、今ブログを書いているほどにわたしを没頭させてくれた。
こんな紹介の仕方していいのか分からないけど、この本の最後の一文を最初に読んだ方が、この本の全体像がわかると思うので書かせていただく。
事実に基づくフィクションーー。読み終えてくださった皆さんは今、一体どの部分がリアルでどの部分をファンタジーだと感じているんだろう。もちろん答え合わせなどをするつもりは無いし、真実はただ、もしも誰かに「今回の人生で一生に一度きりだと思えるほどの大恋愛をしましたか?」と問われたならば、私はなんの迷いもなくこう答えるだろう。
「はい。自分の身を滅ぼすほど、ひとりの男性を愛しました。」と。
浜崎あゆみ
わたしはこの本を読む前に、樺沢紫苑先生の本『ムダにならない勉強法』を読んでいたことで、最初に本の全ページをパラ読みしてしまった。この一文を見つけた瞬間「ああ、しまった!」とか思ったのだけど、結果わたしは、最初にここを読んで大正解だと思ったので、皆さんも巻き込ませていただく(笑)。
わたしにとって『どこがノンフィクションか』なんてどうでもよかった。どこまでがフィクションでどこからがノンフィクションかなんて説明されたところで、この大スターの気持ちに寄り添えることなんてないだろうから。
けど、最初にこの一文を読むことによって、あゆがなぜすごいのかがわかった。どこまでも誰からも愛されていた中で、あゆはたったひとりが好きだったんだ。苦しかっただろうと思う。たったひとりが好きなのに、たったひとりを愛せる人なのに、大勢に愛されてしまった。
小説を読むとまさにそんなようなことが書かれてあって、わたしは声を出して泣いた。ところどころに出てくる歌詞を読んで、あの時こう解釈していた歌詞には、こんな気持ちが込められていたんだと思い、泣いた。そしてたった1人に向けたラブレターがこれほど力を持ち、人の心を動かしたのだと知り、また泣いた。お互いを信じあい、信じさせあいながらスタートしたふたりの関係が好きで微笑み、人気とともに崩れていくことに心が痛くなった。
なんどもいうが、この話がフィクションかノンフィクションかなんて、どうでもいい。ただただ、目の前のひとりを愛し、愛され、信じ、想像し、絶望し、そしてそれらの感情すべてに向き合い続ける人間だけが、言葉という武器を手にできると知った。それだけ知れたから十分だ。
本の中であった、この一文がとても印象的だった。
私は、自分を不幸だなんて思ったことなんてなかった。4歳から父親と会っていないことも、自分の人生を送る母が幼い私と一緒に暮らさなかったことも、高校をやめたことも、不幸の口実になんてしたことがない。
ただ、自分は人と違うのだと感じていた。茶色の髪がカールして人目を引くことも、目が大きく色が白くて外国人のようだと言われることも、博多の街中でスカウトされ小学生モデルになったことも、すべてが自分と向き合うきっかけだった。
『すべてが自分と向き合うきっかけだった』
これが、わたしの中で違和感だった『新型コロナが教えてくれた○○』へのアンサーとなった。
新型コロナはもちろん、病気も別れも死別も、なにもやつらが教えてくれたわけじゃない。やつらは別に親切なわけじゃない。ただ単に、悲しみや苦しみのすべては、自分と向き合うきっかけなのだ。それらから、浜崎あゆみは逃げなかった。
人々がなぜ、彼女の歌に心を奪われたか、きっとみんなが逃げたり、避けたり、向き合いきれなかった感情に向き合ったからだ。人々が言葉にできなかった想いを言葉に綴れるほどに、考え抜いたのだと思う。
小説として泣けたのもよかったけど、ライターとして文章との向き合い方を教えられた。文章を書く仕事をしている人は、言語化力について書かれた本を読むよりこちらを読んだほうがいいと思う。
仕事も恋も、遊びも趣味も、向き合い考え抜いた人にしかその人の答えは出せない。結局コロナの違和感のアンサーを見つけたいための本だったけど、なんか色々学んでしまった。やっぱりカリスマは永遠だ。コロナが終息したら、誰か誘ってあゆのライブに行こうと思った。